No.11「火について考える」

学校で人間と他の動物の違いについて習ったものだ。
直立歩行、道具を使う、火を使う。
その「火」に対して、最近の人間は畏敬と感謝の念を忘れてはいないだろうか。
忘れるというよりも、最初からエネルギーとしての「火」のある生活が当たり前 な世の中では、そんな感情を抱くことは最初から無理に違いない。

昔は、木を燃やして煮炊きをした。夜の明かりや暖をとることにも使われた。
油が使われ出したのは人の歴史からすると随分と最近のことだ。

子供の頃、田舎の生家に囲炉裏があった。
山からとった薪を燃やす。
鉄瓶が「自在かぎ」に吊してあり、チンチンと湯の沸く音がする。
夜はその回りに家族が集まっている。
ただ黙って、火を見つめているだけで時間が過ぎる。

そして大人になって、火の燃える様子を見つめている。
山の小屋で暖炉にくべた薪の炎だ。
幼い頃に囲炉裏で見た火の「揺らぎ」と変わらない。
何故だろう。火を見ている時、飽きることがない。
火の色とぬくもり、炎の揺らめき。
普段ガスコンロの火しかお目にかかれない子どもたちも、薪の燃える様子を見ていると楽しそうだ。
自然と心も落ち着いてくる。
そして時間を忘れてしまう。

難しい理屈では、火は「f1揺らぎ」というモノの一種らしい。
人間が安らぎを感じるとき、約30HZの揺らぎがそのモノから発しているのだという。
風薫る春の陽気にも、美しいと感じる芸術作品にもそういう揺らぎと関係しているらしい。
その理屈はともかく、人が気持ちよいと感じるものは何か共通点があるように思う。

火は古代から続く、安らぎの原点であるのかも知れない。
私は幸いにして陶芸という世界で、「火」のお世話になっている。
薪が燃える炎の色と、1300℃近い超高温の炎の色は自ずと異なるが、 いずれも神秘の色であり神聖な存在であるといつも思う。
杞憂であって欲しいが、人は火を使うということを体感しなくなったとき、 以前の「人」と違う存在に変身してしまうのかも知れない。 

 

(2002年記)