岡倉天心は、
「日本人は宗教心がないにもかかわらず、道徳的にも悪いことをしないで礼儀正しく行儀がよいのは何故か?」
その答えのひとつとして..
「茶の本」(THE BOOK OF TEA)をニューヨークで出版。
1906年のことである。
『茶の本』では、東洋と西洋の間の誤解について 触れ、その解消の必要性を説いている。
そしてまた、西洋の科学技術や実用面の偏重に警告を発し、同時に東洋の伝統的な「精神を重んじる文化」 の重要性を説いている。
この本のほかにも「東洋の理想」「日本の目覚め」という著書がある。
岡倉天心(本名覚三)は、幕末の1862年に横浜で生まれた。
7歳の頃から英語を学び始め、15歳のときに米国人の教授アーネスト・フェノロサと出会う。
28歳のときに東京美術学校(東京芸術大学の前身)の校長になる。
教え子には、横山大観、下村観山などがいる。
その後日本美術院を創立し、以来在野にあって美術界の推進に尽力しました。
42歳のとき(1904年:日露戦争勃発のとき)横山大観らとアメリカに向かった。
天心はボストン美術館の東洋部門の顧問、部長となり、死ぬまでこの仕事を続けることになる。
その間、日米を行き来し、またインド、中国などで美術作品を集めて回わった。
◇
一方の、新渡戸稲造は、
『武士道』の著者でもある。
恥ずかしいことに、5千円札の肖像となってもしばらく、新渡戸稲造の功績を知らないでいた。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」
新渡戸稲造は
「ありません」
と返事をすると、その著名人(ベルギーの法学者・ラヴレー氏)は驚きのあまり突然歩みを止めて繰り返す。
「宗教がないとは。いったいあなた方はどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」
その質問に愕然とし、即答できなかった稲造は、考え方や習慣を分析して『武士道』を著した。
『武士道』は1898年、新渡戸稲造37歳の時アメリカに滞在中に英文で書かれたものだ。
この本は、欧米で多くの読者に読まれ、ポーランド、ドイツ、ノルウェー、スペイン、ロシア、イタリア語 などさまざまな国の言葉に訳された。
岡倉天心の『茶の本』とならんで、明治の日本が世界に誇る質の高い堂々たるベストセラーであった。
稲造は盛岡(南部藩)生まれ。
札幌農学校で学んだあと、アメリカ、ドイツで農政学等を研究。
帰国後は、東京帝大教授、東京女子大学学長。
著書に「自分をもっと深く掘れ!」「自分のための生きがい」など。
新渡戸稲造も岡倉天心もともに、1862年生まれである。
しかし、彼らの活躍から百年後の今。
稲造が著した日本人の精神は次第に薄れ、子孫に授ける道徳教育を何一つ持たない国民になりつつある。
社会規範、モラルのない人達の集まりは、駆け足で崩れ去ってゆくことになる。
(2004年春記)