No.14「会うは別れのはじめ」

人は自由に見えて、目に見えぬ定めの糸に引かれているのであろうか。
自分の意志によって目指しているその道も
時として始めから敷かれた見えないレールの上を走っているかのようにも思える。

傍らから見ていると、もっとふさわしい糸やレールがあるように思えるのだが、
存外自分の糸やレールはよく見えないものである。

一時にして詩人になったわけではないが、ふとそう思った。
「会うは別れのはじめ」というが、どんな人にもそれぞれの出会いがあり別れがある。

生死はその最たるものであろうが、日常の中にもそれは繰り返されている。

初めて紹介される人、めぐり合う人。
かつての仲間や暫くおつき合いのあった人たちでさえ、何気なく別れたら、考えてみるとお互いそれっきり。
10年も20年も、再会することもない。
相当の行動を起こさない限り、恐らく今後も会うことはないだろう、という人達は多い。

卒業や引っ越しなどの旅立ちが結果的に別れとなることは多いが、
決心をして、人と「袂を分かつ」という場合も極まれにあるものだ。

そういう別れは特別であって、熱いドラマがついている。

喧嘩別れもそういう類であろうが、そこには熱い闘争はあっても、 静かで深く慈悲めいた葛藤などというモノは存在しないに違いない。

組織の離合集散などでは、「発展的解消」などと言われることもある。
それらは言葉通りというよりも、
「その様にありたい」
という、気持ちの方が恐らく大きい。

理由は様々であろうが、喧嘩別れではなく、人が何らかの理由で人と別れるとき、 真実、発展的解消を目指して決意するのだと思う。
これはもう歌の世界になる。
それがどんな歌であれ、忘れえぬメロディーとして、見えないレールの上を走りながら時折 胸の中をよぎるのに違いない。

(2005年2月記)