No.8 「風姿花伝~秘すれば花なり~」

以前ラジオで「ふうしかでん」という言葉を聞いて、世阿弥が残したというこの伝書に興味を持った。
その後、町の図書館で本(馬場あきこ著)を見つけ読んでみた。

「風姿花伝」は、能役者である世阿弥 が、父観阿弥の教えも随所にちりばめ書き記した 伝書群のひとつである。

芸を花にたとえ、「まことの花」 である「芸」を身につけることを目的としている。

しかし、世阿弥の花の秘めた部分は、老年に至ると深く哲学的になっていった。

秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず 」

芸は単純に表に出ない奥ゆきを持っている事が大事だという。
そういう奥行きの広さがあって、本物の花になるということを教えている。

世阿弥のいう「花」を「人生」になぞらえても、風姿花伝の教えは今も立派に通じるものがある。

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電車の中に、渡辺淳一の本「秘すれば花」の広告があった。
しかし、作者の世阿弥の「ぜ」の字も載っていなかった。
能面の写真が出ているから、連想しなさいというのかも知れない。
こちらの方は読んでいないので中身は知らない。

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感じたことをいくつか記してみたい。

時分の花/当座の花/珍しき花
などと言い方をする。

これらはみんな、「まことの花」ではない。

新鮮さや珍しさで喝采を博して、芸の奥を極めたように思い込んでしまう。 そして正道からはずれた勝手な型や妙に道を達したような舞いぶりをすることは、 「あさましき事 」であり最も恥ずべき行為なのである。

いつの世にも「あさましき事」にうつつを抜かし、それに気づかない人達は現れる。
それは逆から見れば、本物を見極める側の目にも問題があるのだと思う。

TVタレントの多くは明らかに芸無しであるから、本来は「芸能人」という言葉も 当てはまらないのであるが、現代はそれも見る側のレベルと一致しているということなのであろう。
別にこれは、芸能人に限ったことではなく、例えば政治家や国会にしても同じことだ。

因果の花」を知り、極めるべし。
努力という因があって、上達という「果」があるという。

しかし、人生には「男時、女時とてあるべし 」ともいう。
つまりは、
「男時(おどき)」(上昇運のとき) と
「女時(めどき)」(下降運のとき)
があって、この順次に巡り巡る運のことを、「力無き因果 」という。

これには、じたばたしても始まらない。

世阿弥は、足利義満の庇護も厚かったが、その後時代と共に冷遇され、71才にして 佐渡に流されている。
こうした苦労も身にしみているのである。

花は心
花は心によって咲くのだから、大事は心ひとつの工夫にあるということか。
全く深淵ではないか。

深く面白いものこそ、「花を極めたる 」芸といえるもの。
つまりは、「秘すれば花」である。

その道のプロとしても、見識の深さや人との交わりにおいても、奥行きを持って生きたい と感ずる風姿花伝であった。

(2001年記)