No.9「ラジオから」

 

暫く前の、料理評論家やまもとますひろ氏の話。
中国のある地方を旅した人から聞いた話だそうで..

美味しい無花果(イチジク)があるので、明日朝早く出掛けようと誘われた。
翌日眠い目をこすり、たかが無花果のために何でこんなに早起きしなければいけないのかと 思いながらついて行くと、そこにはもう鳥たちが集まって、ほどよく熟れた無花果をつついて いたというのです。
つまり、美味しい無花果を食べるための早起きだったわけです。
現地の人たちは、熟れた無花果を判別して次々と採ってくれるが、こちらから行った人は なかなか見分けがつかない。

そして、ご馳走になったあとで、彼らが話してくれたのは、
「この無花果の三分の一は、鳥たちにやり、三分の一は大地に返し、残りの三分の一 を我々が食べる」ということ。
またこのとき、りんごの話題も出て、何故酸っぱいりんごがなくなってしまったのか ということを語っていました。
日本人は、いつでも好きなときに好きなものを食べたいという欲望のために、 何か大切なものを無くしはしなかったか? とも。

足るを知れば辱められず 止まるを知れば危うからず

と中国の古典にありますが、人の幸せ感というのも、結局どのあたりで足を知り、止まるを知るかで随分と違って くるものではないかと感じた次第であります。

 ◆

さらにこれは、もう30年位前のことでしょうか、永六輔氏の話。 「井の中の蛙大海を知らず」というでしょ。
この井の中の蛙は、単なる自分勝手で、世間知らずの蛙ですよね。でも、このあとに、
「されど、天の深さを知る」と続いてたとしたらどうですか。
とまぁ、このようなことだったわけです。
確かに井戸の深さの分だけでも、天の深さを知る蛙であれば、この蛙に対する見方は 全く変わってしまい、嘲笑から尊敬の念すら湧いてきます。
但し、その出典を見ましても、後半の部分を自ら探り出せてはおりません。

「されど天の深さを知る」と続く、味わい深いものであってほしいと思うのですが。