7.「宗教について-その1-」

宗教と政治と野球のことは話題にするな、というようなことをよくいう。
人それぞれに自分の信じるところがあり、好みというものがある。
相手をよくみて話題を選ぶ必要があるが、特に「宗教」のことは注意が必要なので、 君たち子供にはきちんと伝えておかねばならない。

そもそも宗教とは何だろう。
そのことをここで細かく語るには無理がある。そこで父の宗教観を書き記すので君たちなりに考えて欲しい。

宗教とは、迷える人間を正しく導きそしてある時は救いの手を差し延べてくれるものであるはずだ。
そして、人間本来の美しい心や行動の規範、平和の心を教え育むものであるはずだ。
宗教を深く信じるものが何故、いがみ合い残虐な殺し合いまで引き起こすのか、 これまでの歴史をみてもアメリカのテロなどをみても納得が行かない。

殆どの外国では誰もが、信じる「宗教」があり、日本人のような無宗教者など全く信用されない。
そんな国では「仏教」などと記入した方がいいということになる。
さて、我が家では極一般的な日本人の家庭で何も宗教活動はしていない。
しかし、正月ともなれば初詣に出かける。
行き先は神社であったり、お寺であったりという具合だ。
七五三には神社へお参りに行った。
厄年などという年を迎えると、何となくやった方がいいからということで、案内をもらったお寺で厄払いをした。

父の生家は真言宗だ。母方のお寺は禅宗だ。
たぶん自分が死んだら、葬儀屋の紹介なりで何宗だか分からないが、手すきのお坊さんが引導を渡してくれるのだろう。
そういう意味では、宗教は?と訪ねられれば、「仏教」ということになるかも知れない。
それでは、その程度のことで全く宗教について考えがないかというと、そうでもない。

既に述べたように、本来宗教は人の心を豊かにしてくれるはずであり、人間らしい振る舞いや安息、 充実感を得るための精神的なよりどころというようなものだと思う。
したがって宗教とは、宗教団体や信ずる神や仏のためのものでなく、自分自身のためのものだと思うのだ。

本物の宗教団体かどうかを見分けるのは簡単だ。名目をつけてお金を要求するかどうかという一点で大体わかる。

それはさておき、宗教活動に入った人のきっかけをいろいろと耳にする。
家庭内の不幸続きから、誘われて..というようなケースも意外に多い。
病や事故やいろいろな騒動含めて、わけのわからない不安なことが起きると、どうしても人間は弱い一面が大きく台頭する。
そんなとき、どこそこの先生に相談をすると、不思議にも難病が治ったとか、不幸続きが断ち切れたとかで、 親切にも紹介してくれる人が現れるものである。

この父は、超能力や超常現象を否定するものではない、むしろ存在すると思っている。
しかしそれは、自分自身の強い信念とパワーによって発露するものだと考えている。
ということは、弱い心の状態で盲目的に他人に頼ることはお勧めできないということだ。

 

(2002年記)