8.「宗教について-その2-」

世の中には、宗教という言葉を隠れ蓑にした、単なる詐欺や金もうけ集団の類が山ほど存在している。
むしろ多くの場合、心理的コントロールの対象とされ、宗教本来のものとは異なった道に足を踏み入れる 危険性が大いにある。注意が必要だ。

人間はどんなに強く見えても、ふと大きな存在に頼りたくなる時があるものだ。
そんなときはどうだろう、まずは自分自身のご先祖様がいらっしゃるではないか。
未体験の宗教に走るよりも身近でつながりのある自分のご先祖様を大切にし敬う気持ちを持ってはどうだろう。
時には、「助けて下さい」と心から手を合わせてもいい。
素直になって心を開き、感謝の気持ちでご先祖様と会話をしてみてはどうだろう。

お祖父ちゃんも天国で、いつも君たちのことを必ず見守っていてくれる。そのまた、お祖父ちゃんお祖母ちゃんも..。
どうせお願いするのなら、ご先祖さまに手を合わせたり墓参りをすることを最初に考えたらどうだろう。 何よりも身近で自然なことだろうと思う。

行き詰まっているとき自分の人生を変えるのは、案外と自分の気持ちや行動を変えてみることから始まるものだ。
素直になって自分の行動を見つめ直してみよう。
自分のことは棚に上げて、不平不満ばかりを口にしていないだろうか、周囲の人に感謝の気持ちを忘れてはいないだろうか.. 不幸の神様はそのような人間が大好きらしい。
感謝の気持ちと幸せは比例するという。
そんなことも少し考えてみよう。

父は法事の席でお坊さんから「般若心経」のことを教えてもらった。
僅か二百数十文字しかない、短いお経である。
お経というと、それだけで特殊な世界だと思うだろう。
しかし般若心経の教えは仏教には違いないが哲学的でもある。
全ては「無」であるという教えは、捉えようによっては宇宙や最新サイエンスの出発点とも通じるものがあり、 その一致はまことに深淵である
般若心経は一般教養書としても誰もが学んでおくべきものかも知れない。

厄払いで、有名なお寺のお堂に上がり声を出して唱えたのは、現に般若心経だった。
お寺の法要のとき、お坊さんの高尚なお経のあと一緒に唱えたのも般若心経だった。
玄奘三蔵が、唐から天竺までお経を求めて旅したときに、般若心経を唱え続けて無事に帰還したというありがたいお経でもある。

多くの宗教は、唯一絶対の神や教義があり、他を認めたり理解しようとしたりすることは基本的にあり得ない。
そんな宗教の核心部分の是非に終始しては、人間らしい平和な安らぎとはほど遠いもので終わってしまうだろう。
もっとも、それが宗教というものだろうが。

しかし、般若心経をとおしてお釈迦様の教えや生きざまを知ると、生身の人間の苦悩というものを感じるし、 そこから脱却しようとする知恵がいっぱい詰まっているように思う。
宗教臭さは余り感じられない分、親しみやすいと思う。

つまり父のいう宗教とは、ご先祖さま仏様への感謝の念をごく普通に持とうということ。
更に思い悩み、すがる気持ちがある時は「般若心経」の教えに耳を傾けてみようということだ。
これは、学ぶ気持ちがあれば自分で勉強ができる。
その時は、瀬戸内寂聴さんの本が読みやすいと思うので参考にして欲しい。教養書としても一読しておくことを勧める。
具体的には、気持ちを落ち着かせ般若心経を唱えてみるといい。
写経するといい。
お守りとして財布の中に小さくコピーして忍ばせておくといい。

お金と時間を割いて宗教団体に頼ることをしなくても、それ以上の大きな安心と効果が期待できるはずである。
要するに安心と平静さを取り戻すことができれば、自分の力でまた先に進めるはずである。
お釈迦様は言っている、
自分を拠り所にして生きなさい、と。

 

(2002年記)