13.「時熟について」

司馬遼太郎の「国盗り物語」であったか、この「時熟」という言葉が使われていた。
隣国を攻め取るのに、まだ機が熟していない内は青柿をもぎ取るようなものであるとして、 攻撃を見送った。
熟した柿は、力任せにもぎ取らなくとも自然に枝を離れる。
というような喩えをした上で、このように時が熟すことを「時熟」と呼んだ。
司馬遼太郎の造語であるが、二十歳の頃に知ったこの言葉に大いに感動したものである。
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その後、この単語を知っていて良かったと思う経験を何度かした。
どのような場面かと言えば、多くは対人関係である。
人間には「相性」というものがある。
これは「好き嫌い」という言葉に置き換えてもいいかも知れない。
好き嫌いは出来るだけ無くした方がいいに決まっているが、
「好きと嫌いは理屈を越える」
と言われるように、時にどうにもならないこともある。

このようなときは、経験から言えば急いては事を悪化させるだけである。
互いに理解し合うまでには、それなりの時間と距離が必要になることが多い。
難しい局面ほど胎動期間というものが重要にもなる。

時が熟すまで、気を配りながらも棚上げにしておくことが一つの解決方法でもある。
好きではない相手に対しては、好意を持つ必要はないが、100%相手を嫌いになるのも早すぎる。
相手のことが充分に分からない内は、あくまでも一旦保留するという姿勢と余裕が必要であろう。

少し、距離と時間をおいて眺めると、案外といいところが見えてくるものである。
さらに冷静な判断が加わることで、それなりのつき合い方を発見することもある。
相性や好き嫌いには許容できる幅がある。
その幅は広いほど、ストレスも少なく、楽しみの機会が増すことは間違いがない。

対人関係以外でも、この「時熟」という考え方はいくらでも活用できる。
時が熟するのを冷静に待つ、という選択肢を持っていることで、 随分と救われる局面もあるかと思う。

(2004年5月26日記)