10.「身の丈について」

身の丈。背の高さのこと。
低い人もいる。高い人もいる。
生まれながらに遺伝的な体質によることもある。
生まれてからの栄養状態によることもあるだろう。
いずれにしろ子供から大人になる途中で身の丈はほぼ確定してしまう。

背の高さによって視野も随分と異なるものだ。
満員電車で前の御仁の髪の毛が、送風機の風が来るたびに顔にあたってたまらない。
除けることもままならない。
もう少し背が高かったら、車内の眺めも違うし快適に違いない、と思うこともある。

旅館に行って思う。
首一つ位も背の高い友人は、つんつるてんの寝巻きを着て、布団からはみ出して寝ている。

列車のボックス席で思う。
座っても膝が邪魔になるくらい背の高い男は、彼なりに苦労がある。

(ちょうどいいのかもしれない、こんなところで)

とまぁ、体そのものの身の丈のことを話してみた。

さて昔から、「身の丈の暮らし」をしなさいという。
人それぞれ、暮らし向きが違うことは分かるだろう。
同じ親から生まれた兄弟姉妹でも、年収や持ち物、財産、家族状況など、みんな違う。
住んでいる場所も、家の間取りも広さも、車のあるなしも車種もグレードもみんな違う。
家財道具や電化製品のあるなし、大きさや機能もみんな違う。

もっと大型で今流行の液晶テレビが欲しい。
もっと高級な車が欲しい。
もっと美味しい食事をしたい。
休日には外食したい、旅行もしたい。
広々とした家に住みたい。
ブランドものの宝石や衣類が欲しい..などなど。

生活をする上でやはり大きい違いは収入(お金)だ。
収入の違いは致し方ない。

お金を沢山もらい、楽しい生活ができればこんなに気楽なことはないだろう。
世の中には、朝から晩まで汗水垂らして懸命に働いても、一向に楽な暮らし向きとは縁遠い人もいる。
そうかと思えば、たまたま波に乗って大儲けする人間もいる。

極端な例は除いても、人それぞれ収入も生活環境に違いがあることは既に述べたとおりである。
すなわち、人それぞれ異なる環境、異なる暮らしであれば、自分の生活を見据えて自分の環境を 基本に物事を考えなくてはならない。
いくら隣人が高級車を乗り回そうとも、人は人。
我が家の生活レベルにあった選択をしなければならない。

父親として、真に言いたいことは「心の持ち様」である。
実際に、お金を含めて条件が整わなければ無理を通すことはできない。
出来ないから、大半は我慢することになる。
問題はその時である。
その時に、自分若しくは自分の環境と他を比べ、ねたみ、そねみを思うことほど不幸なことはない。

具体的に言えば、一食あたり二千円支払える人がいる。
千円の人も、八百円の人も、五百円の人もいる。
八百円の人が、それ以上のメニューを見てよだれを垂らして何の意味があろう。
高いメニューを見て知識を持つのは一向に構わないが、せいぜいそこまでだ。
今は八百円の料理を選び、楽しめればそれでいい筈だ。
より高級品を手にすることが出来きずに、嘆くことは目の前の現実を無視していることになる。
目の前の現実を受け入れられないということは、今の幸せを見過ごすということである。

人には人なりの、自分には自分なりの暮らしがあり、幸せがある。

これまで敢えてお金の話をしてきた。
しかし、お金がすべてではない。

例えば、結婚してから友達同士で話題になることもあろう。
亭主のこと、その親のこと、子供のことなどなど..。
すると、
よその旦那は家事をよく手伝う。
よその子供は塾に行って勉強ができる。
よその○○は..

やがて、
うちの亭主は..
うちの子供は..
となる。

比べて何の意味があるだろうか。
比べるときは、大抵がよそに有って、うちに無いものと比べている。
うちに有って、よそに無いものは忘れ去られている。
すなわち、今ある幸せや大事というものに感謝出来ず仕舞になる。

大げさに言えば、これは君たち自身の破滅を招くことになる。
よくよく注意が必要だ。

幸いにして生活の身の丈の方は、大人になってから徐々に上向くことが多く、 また蓄えを上手にすることで、ある程度備えることも可能になる。
お金や物も大切であるが、何よりの大事は自分の周りにあるお金に変えられないもの にあると気づくとよい。
そうすれば、小さな幸せを幾つも幾つも手にすることが出来るはずだ。
それらは健康であったり、人の温かさであったり、何気ない日常の中の面白さであったりする。
どうか、ほどほどな欲というものを知り、「身の丈の暮らし」「身の丈の幸せ」ということを考えてみて欲しい。

(2003年8月記)