11.「バランス感覚について」

例えるならば、シーソー或いは、やじろべえのようなものに似て、微妙なバランスを保つということも 大事であるように思う。

右に寄りすぎたら少し左に戻し、強すぎたら弱めに加減する。
多すぎれば少なくし、早すぎると思えば意識して遅くしてみる。
その様なバランス感覚は誰にも身に付いている一種の防御本能のようなものであるかも知れない。
したがって、それほど意識をすることなく本来は実践できるはずなのである。

自動車の運転を考えてみよう。
前の車との車間距離、これは走っているスピードによって安全な車間距離は変わってくる。
しかし経験とスピード感、アクセルとブレーキ操作によって コントロールできるものであり、難しい理屈など必要ではない。
ついでながら、前の車にピタッとついてる走る命知らずのドライバーは、安全知識と人間性において 必要なバランスが失われた未熟者であるから例外と考えればいい。
更についでながら、前を走る車によって上述のバランスが脅かされるようであれば、追い越す、という 決断も身の安全のためには取らねばならない。

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善し悪し、好き嫌い、義理や人情、勿論のその他の決断すべき判断要素はいろいろと存在する。
しかし、それ以外に「バランス」という一見論理的でない基準があってもいいと思う。
たとえば数の論理で雌雄を決する政党や政治家を選ぶ時にもあてはまるかも知れない。

「優柔不断」や「妥協」、或いは「談合」だとかいうものと、どこかつながると思うかも知れないが、 似て非なるものである。
それらは自分の意志を忘れ去ったり、すり替えたり、姑息な戦術であったりする。
バランス感覚はアナログ的で、見方によればいい加減に思えるが、実は自らの経験と研ぎ澄まされた英知の中から 生まれるものである。
さりとてこのバランス感覚も、車間距離を保つのに似て、頭の中にある情報や過去の蓄積によって 結構瞬時に答えを出すことが多いように思う。
殆ど「直感力」のようなものかも知れない。

いつもバランス感覚で行動しろというつもりはないが、そういう選択肢の存在と、大局的には これが案外正解を導き出すことを知っておくとよい。

さて、本来備わっているはずのバランス感覚も、生き死に関係ない世界や日常のこととなると どんどん鈍ってくる。

話をしているとき、相手よりも自分が話し過ぎてはいないだろうか。
してあげることと、してもらうことのバランスがとれているだろうか。
求めることと、自分のした努力は見合っているだろうか..

言っておくがこのあたりの話は、本来は「GIVE&TAKE」は馴染まない。
特に信頼のおける対人関係や自分自身との約束事において、ギブとテイクをバランスさせるするような ちっぽけな考えは捨ててしまった方がいい。
できることは惜しまず、「GIVE」主体でいい。
そして「GIVE」の見返りを最初から当てにしない方が気楽である。
「TAKE」があれば、それは大いなるラッキーとして喜べばいいのだから..
とはいえ、聖人君子の心境にはなかなか至れぬことは、自分をみていてよくわかる。
そこで、この分野でもまずは最低限バランスをとれたらと思う。

バランスを崩さなければ身を危うくすることもなく、結構気楽でいけると思うのだが、どうだろうか。

(2003年秋記)